瑠璃風ノート last page
モデラート・カンタービレ
   ~普通の速さで、歌うように~     

置いてきた自分

ただいま旅行中

小さな変革

心ゆれて

完全な風景

刺激について

幕が開くのは..

風の音を..
 出会い

 自分の「世界」はずっと、過去からつながって今日に至っていると、これはしごく当たり前のこととして意識もしないことであったのだけれど、ここに来て――それは多分3、4年前から始まったのかもしれない――そのことに急に自信が持てなくなってきたのです。 
  私は長いこと造形の仕事をして来ていてそれが、言ってみれば「アイデンティティ」(identity)というものだと思いますが、自分のアイデンティティを少しずつ拡げ、その中で成長し生きることで出来てきた「世界」が、まさに私自身であることに、不確かさを感じることが起こるなんて、思いもしなかったのです。

 ところが何だか今、そこから私は抜け出してしまったようなのです。いえ、もしかしたら私は違う私に移ったのかもしれないのです。何十年の間には人はいろんな場面でその都度選択をし、生きてくるわけですが「あの時あの選択をしなかった自分が、あのままあそこで生きていたら...」という思いを過去に小さなエッセイにしたことがあります。 (これはまた、次回にでも)

 私も沢山の選択をして来ました。その過程で心魅か れながらも、置いてきた愛しいものも、沢山あります。そんなものたちに再び出会ってしまった時に、私の揺らいでいたアイデンティティは急にその境目を溶かし始め私はそれまでの世界から抜け出してしまったようなのです。そして、「置いてきた私の一人」を、その続きを今ちょっと生きてみているのかもしれない、という気持ちになっています。








1.  置いてきた自分

 台所で洗いものをしていたりする時に、突然、置き去りにしてきた遠い風景がよみがえることがある。
大切に思い出の引き出しにしまっておいた風景、といったものとはちがって、「置き去りにしてきた」という感じがするのは、何でもない朝のことだったり、どこか特別のこともなく歩いている瞬間のことだったりするからなのだけど、なぜそんな遠い風景が突然戻って来たりするのか不思議で詮索してみる。するとそれは、だいたいは、家の前を走りすぎて行ったバイクの音がキッカケだったり、洗いものの手が感じた水の感触だったり...そう、多分そんなことのせいなのだろう、と折り合いをつける。
 そんな遠い風景の中に、時として他人のように感じられる自分の居ることがあって、なんだか思いがけない気分にさせられることがある。
 おだやかに晴れた平日の昼間、西武新宿線に乗っていると、最近ではいつでも混んでいるけれど、時に昔この電車がまだ四両編成だった頃のように、人がまばらで、のんびりとした電車のことがある。
 そんなある時、突然、過去の自分が乗ってくるかも知れないと思ったことがある。
 沢山の選択をして今の自分が在るとすれば、「あの時のあの選択」をしないままの自分が「あの風景」の中で生きているかもしれず、その私はどんな風だろう。などと、つまらぬことを考えて、のんびりした車中を過したことがある。 沢山の場所で暮らしてきた、その、それぞれの場所と同じだけの、置き去りにしてきた沢山の風景と同じだけの私に、どこかで、いつか出逢ったとしても、気付かずに通り過ぎているのかもしれない。
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2.

 TRAVELLING―ただいま旅行中

 十六歳の頃でした。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」を読んだ私は主人公のホリー・ゴライトリーの不安定な生活感覚にすっかり魅せられてしまいました。

 ニューヨークのアパートのポストボックスに「旅行中」と書き、大型カバンひとつで暮らしている風のような生き方にあこがれてしまったのです。(当時のスター、オードリー・ヘプバーン主演の映画をその後しばらくしてから見てがっかり。映画は映画で楽しかったのかもしれませんが、原作のイメージとは全く違っていましたし、なによりも大切なラストがいわゆるハッピー・エンドになっていたのには幻滅しました。 )

 このことを、ずっとあとになってから突然思い出しましたがそれは、フランスで暮らしている時に次の滞在地に引越しをしようと、いくつものダンボールで荷物を送ろうと住所欄に「 en voyage = travelling」 と書いていた時でした。

 若い時に家を出てから現在までに、いくつの郵便受けに名前を出してきたかしらと、数えてみると五本の指を三回折っても足りなくて、そのうちに思い出が横道にそれてしまいました。

 ネームカードに「旅行中」とすることはありませんでしたが、確かにいつも旅行中の気分で暮らしているような気がします。でも、自己イメージあるいは理想と現実の自分の生活は分裂していて、カバン一つで風のように生きられたら・・・と『粋』な自分をイメージするのに、本当の私は沢山の物を抱え込んでしまいます。

 特に絵を描いていると普通の生活には必要のない沢山の物、器材や絵の具、紙類だけでもいっぱいなのに、拾ってくる木切れや針金や小石、わけのわからないガラクタや布切れでいつのまにか〈 仮の宿 〉もいっぱいになります。
 けれども旅行者であるということは、物にも人にも、出会いには別れがつきものだということが身にしみてしまうということでもあります。 だからこそ、人に対しても物に対しても、出会っている今がとっても大切に思える。でも、別れを恐れないということが基本になってしまいました。そして同時に、その時が来れば( 縁というのでしょうか )きっとまた会える、という不思議も信じることが出来るようになりました。

 よく人生が旅にたとえられますが、それならばどんな風に暮らしていても、本当にいつも新しい発見や出会いのある生活をしていたいと思います。

 でも!やっぱりそろそろ又、本物の旅人になりたい!

(このエッセイを書いたのは'92年!初出「La Piazza」という小冊子です)それからさらに引越しを重ね、現在は5本の指、六回目に入っています。後一度くらいは、動くかもしれません(*^_^*)。  

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3.  小さな変革

 初めて自分で設計した家に住んでいた30年以上昔!の話です。
 それは今で言えば小さな2LDK。 玄関を入った所がLDK、真ん中に1メートル程そこだけ高床の私の部屋と奥にもう一部屋というだけの造りです。
 ある日フト、自分の毎日が同じ動線、と言う事は、同じ視角で家の中を過ごしている。で、それによって(慣れによって)あらゆることを無意識に近い状態でしている。ということに気づいたのです。
 玄関を入り、コートを脱ぎ、部屋にむかう、あるいはバスルームに...
 ☆!「もっとあらゆる動作に意識的にならないといけない!」そして私の考えたのは、玄関を封鎖してしまうことでした。
 真ん中の高床の私の部屋は広い庭に面し、掃き出し窓でしたので、その下に踏み台を置き、そこを入り口に。その上、玄関の扉の外に姿見鏡をつけました。
 訪問者は先ずわが姿を確かめてから、一度戻って窓から上がることになります。
 若かった上に過激なことの好きな友人たちが多かったので評判は上々でした。そして視角を変えると言う事がこんなに大きな意味を持つのかと、ビックリするほど新鮮で、またそこから新たな発想やコミュニケーションが生まれたのです。
 そうしていたのは、もう記憶に定かではありませんが、結局三ヶ月程のことだったかと思います。(すぐにまた慣れてしまうということも驚きでした。)
 
 ついでに、その部屋は完全モノトーン。(グレーから黒でしたので、首をかしげながら仕上げてくれた若いペンキ屋さんがそれでも、出来上がってみると予想外に良かったのか、えらく感心してくれましたが)
 飲み物用の小さな冷蔵庫を、これも当時は黒なんて無くて、ペンキで仕上げました。それから何年かしてから黒いインテリアが流行り、黒い冷蔵庫も登場しましたが、また最近は見かけません。
 この年になると、慣れたリズムというものの大切さも判りますが、それでも時々とんでもない小さな改変(怪変?を生活に取り入れたくなる時があります。
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4. ――心ゆれて

正確にはわからない、ただ「南の方に行く」とだけ
帰ってくることはもう、ないだろうけれど
いつでもそんな風だった気がする
はるかな町を想ってみる

苦痛を伴うかすかな、懐かしさがよぎる
もう忘れていたのに
野原をひくく蝶が飛んで
すっかり雨がやむと、ひとしきり風が吹きすぎた
ガラスの外はもう夕暮れの最後の光が...
たった今までの激しい夕立も、うそのようで
匂い立つような光を含んだ霧が晴れると
虹が大きく架かるが、また魔法のように薄らいでいく
手をのばしてみるが...

すっかりともう宵闇が近づいて
薔薇の香りが何処からともなく漂い
優しい夜が始まる
暗い中を香りとかすかな風の音が...
ヘリオスの馬車を送り出す遠くの響きか
ん?
彼方の空に最初の星がまたたき
全てはこうして始まったの
瑠璃色の艶やかな夜に
――とっても不思議だけど..と彼女は言う
――もう、ずい分遠いあの日も...
          
          ***

 《去年のある日、久しぶりに、本当に久しぶりに
 R.M.リルケ の懐かしい詩の一節に出合い、心が揺れてこんなものを短時間にしたためました。余りに拙いのでその一節をタイトルにすることは恐れ多くて出来ませんでしたが、これはその一節のアクロスティックになっています。(-_-;)
お解かりになった方、掲示板にでも..(^.^)》
                     
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5.  最近、アーカイブスと言う言葉をよく聞きます。
archives だろうと思いますが、revivalと同じように使われている気がすることもあります。
でも先日は、あるファッションのブランドショップで「アーカイブスの一点もの展覧とセール」というのをしていて、長年好きで、着てきていたデザイナーのものなので、行ってみました。
―アッこの頃のも持ってた と、いう物が多いのですが、さすがに今でもまるで違和感のないものばかりで驚きました。
自分は気に入っていても、それだけによく着るので、飽きて処分ということがありますが、「作品」として捨てがたいものもあります。
で、ついそんな一点の中から、涼しい麻のワンピースを買ってしまいました。着る人もアーカイブスからの登場みたいですので良いかもと。(-_-;)

マッ、そんなわけで?!次の文章も...
初出 小冊子「La Piazza」'92より
  

 完全な「風景」

 なんとなく「不幸な気分」の時間の中にいる時に、私は
本を、ジョナサン・キャロル(注)を読んでいたのだけれど、その時突然、バターを塗った白いパンが見えて、その味がした。「部分的にしか知っちゃいない...」という文字にそれが重なったのだ。でもこの前後も、この文字も、全くバター付きパンとは関係が無いのは、はっきりしている。
 だけどなんだか、そのバターパンの味が「不幸な気分」の時間から抜け出させてくれる「完全」なものをなにか持っているような気が急にして、本を閉じ、大好きなイタリア製の黄色いお皿を出して、パンを切って、ミントティーを淹れて、ちゃんと椅子に座って食べて見た。

 パンも白くて、バターも先程感じた味と全く同じだったのだけど、その時にフッと感じた「完全」なものは少しももどってこなかった。

 西陽が丁度食堂のテーブルを一番明るくしている時間で、散漫な光の反射が、食堂を満たしていた。
その時私にはこの気分から抜け出すのに必要なのは、バター付きパンではなくて、いつか以前にそれを食べた時の、海の見える窓辺の、あの朝の方なのだってことが解った。

 解った時、気付いてみると「不幸な気分」から抜け出していて、なんだかおかしくなって、私は本を読み出す前の仕事に戻った。

注*ジョナサン・キャロル*
ファンタジーに分類されるアメリカの作家だが、豊かな知識と感受性を土台にした文章の行間から、「生きる歓び」がにじむ。

(初出 小冊子「La Piazza」'92)
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(このエッセイは'93年に書いたものに加筆(*)、
部分校正したものです。初出は小冊子「La Piazza」)
  

 刺激について

  マイルス・デイビスのトランペットを久しぶりに聴いた。音の響きというのは一瞬にして、いろんな世界につれていってくれる。この時は以前にこれを聴いていた新宿の地下の店やその頃の新宿の、今から思えば多分案外に短い間のだったかもしれない、開放的で新しいものの生まれた街の空気さえもが戻ってきた。(*-1)
 でもマイルス・デイビスはその頃もっとエキセントリックな音に聴こえていたように思う。昔の音楽を聴いた時に意外なほど音がやわらかく感じられたり、テンポが遅かったのだと気付くようなことはもう大分以前からのことだけれど、若い時というのはエキセントリックな刺激に強いはずなのにということを考えるとやはり、マイルス・デイビスの音は当時とても新しい音だったのだなぁと思う。
 エキセントリックも、粋も、自然も、未完の自由もない、今はただ大きなスーパーマーケットのようになってしまった新宿の街にはもう似合わない。(*-2)

 それと似たようなことを、先日クレーの展覧会に行って感じた。クレーの色の美しさは感覚の底までとどいて、知っているつもりであったのに記憶よりも案外に静かな深い色であったことが軽い驚きであった。(最近パリで見たときにも感じなかったことで、ParisとTokyoとの街の色が大きく違うということを、これも又あらためて感じもしたのだけれど)
 日本の印刷技術の優秀さは有名だし――でも技術の優秀さが必ずしも良い色を表現するわけではないけれど――ともかくも発色の良い印刷物や街に溢れるさまざまなきつい色に絶えずさらされている目には、深い美しさはとても快く精神的でさえあった。
 私は今、色作り(いろ紙づくり)に凝っているのだけれど、さまざまな道具や新しい絵の具などをためしてみるのに、私には、結局は昔からの、しかも残念なことにやはりヨーロッパのえのぐと手仕事とそれにかける、ゆっくりとした時間の中からしか気に入ったものが出来てこないのは不思議なほど。
 それにしても、BUNKAMURA(東急)の美術館の照明はどうしてあんなに暗いのだろう。作品の保護のためばかりとは思えないのだけれど。
      
           ***
                          
 *-1 先日たまたま出合った本によって、それは、ほぼ
60年代後半を全盛期として70年代の始めには変質し始めたのがわかりました。私は少女時代に辛うじてその空気に触れたのだと。ヨカッタ!
 *-2 私は街中の散歩が好きで、アチコチ歩くのだけれど、いつも普段着?のせいか、銀座でも青山でも店を覗いていると「ご近所ですか?」と言われるけれど(~_~;)新宿は本当に何十年の付き合いのせいか、「近所」。
 私が最初に個展をと思い決めたのが、もちろん今は無い伝説の?カフェ「青蛾」、決めて後、身体を壊しキャンセルしたのが、残念な思い出。
 近所とはいえ、エネルギッシュなバリエーションの在る街なので、元気な時は面白く、用にかこつけて出かけていってしまう。
                        
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7. では、このあたりでまたお遊びを...
  

 幕が開くのは午前三時

まっくらだからって

くらいなかに、ホラ見えるでしょ

ガラスに映った光のようにキラッと

ひとみを半分閉じて

らくなこの椅子にすわって

クスクス笑うのは誰?

みものは?

やくしないと始まるワ

らんなさい、静かに

ったい素敵よ

ん?

人とも、ちゃんと居る?

じゃ、ごゆっくり!

 

いかがでしたか?あなたには、何が見えました?

           
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8.  風の音を聴いていると――

新しい絵にとりかかって2時間もすると、手ばかり動いて
イメージが力を失っている気がする。
風の強い日。
納戸がわりの北の部屋に風の音を聴きに行く。
西の壁の低い位置に通気孔があって、今年初めての北風が横に流れていく時にひんやりとした風をかすかに送り込んでくる。
その前に寝転んで、風の音をきいている。

風の音を聴いていると、遠く過ぎた日々を感じる。
ずっと以前の私が、誰かに会うために走っていたり、電話をかけていたり、仕事明けの新宿の夜明けをコーラを飲みながら、仲間たちと歩いていたりする。
確かには見えないうちに、ひんやりとするひと吹きごとに動いていく場面。

風の音を聴いていると、旅の時間がよみがえる。
初めて降り立つ町の駅を出て、海に続いているはずの道に踏み出す時。
暗い夜中の、広々とした駅舎の待合室。
あちこちの広場のカフェ。

風の音を聴いていると、未知が沢山あることを想い出す。
どんな風にも生きていけるはずの、未知の時間を。

もう一度イメージを確かに作り直すために、私が机に戻った時、風の音は遠のいたけれど、心は広い時間を飛んでいる。

(初出 小冊子「La Piazza」'92)
                              

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